もう何度か書いていることだが、今年の1月の終わりに父が急逝した。
参考ページある日突然「喪主」になった男の苦労話とか【晩酌 #6】
長男であるわたしが喪主として葬儀の一連を執り行う中で、こういった昔からのしきたりというか、もしくはもっと大枠で「文化」とでも呼ぶべきか、我々日本人が当たり前のようにこなしている様々な行事について思い至ることがあったので、今回はそんなことをつらつらと書いていこうと思う。
自慰ユアセルフで心もスッキリ?文化の真価とは
始めに書いておくが、仏教およびは宗教を蔑ろにするつもりはない。しかし、我が一族はそれほど信心深くないこともまた確かだった。
父の葬儀を執り行うにあたって決めなくてはいけなかった様々な事、お寺の宗派であるとか、お経の内容であるとか、参列してもらう親戚だとか、もっと些末なところでいうと返礼品のお値段だとか。そういったことのほとんどは葬儀屋の指示通りに決定したし、わたしに限らず親戚の方々も、それらについて大きな拘りを持っている方はいなかった。
ただでさえメンタル的に限界の状態で、言ってみればこのような「流れ作業」を進めていく際中、一体これは何のために頑張っているのだろうという気持ちはどうしても拭えなかったのである。
自分で作った山を自分で崩すような作業
もちろん仏教に深い造詣があるのなら話は別で、それならば葬儀を行うこと自体に意味があると言えよう。そういう方を否定する意図はない。
ただわたしも、そして当の父も、「お経を読んでもらわなければ極楽浄土に行けない」というような人生観はついぞ持ち合わせていなかったわけで、むしろ父の意見を聞くことが叶うなら「お経なんていいから骨は海にでも撒いてくれ」と言われるような気さえしていた。
それでも多額のお金をかけて葬儀を執り行うということは、わたしにとって『何もない平地に自分自身で「タスク」という名の山を築き上げ、それをまた自分自身で切り崩していく』ような自慰的作業に他ならなかったのである。
それでも自慰にはなるわけで
「自慰」と書いたのは他でもない、やはりそれをすることで気持ちが楽になるという側面は確かにあるからだ。
わたしのような信心深くない人物でさえ、そしてそれが同じく信心深くない父の葬儀でさえ、それをすることで何らか父のために頑張ることが出来た、という満足感が得られるのである。これは今回喪主になる以前から、祖母や祖父のお葬式に出席する度に感じていた。葬儀は本質的に残された者のために執り行うものだ。しつこいようだが「だからダメだ」などと言うつもりは全くなく、それはそれでとても大切な事だと心から思っている。
ただわたしが言いたいのは、こういったやって当たり前だと思っている文化的な儀式の多くは、実利という意味ではほとんど無駄で、よく考えるとなぜやらなければいけないのかもロジカルに説明できず、その「やらなければいけない」という価値観でさえ自分自身が作り上げたもので、繰り返しになるがそれをさらに自分自身で切り崩していくという自慰的な意味が厳然として存在しているということなのだ。
今日の晩酌
では、そろそろ呑もう。
タケノコの姫皮を刺身で
今年も灰汁抜きをしたタケノコで炊き込みご飯や照り焼きを作った。
お楽しみの姫皮部分はわさび醤油でいただく。柔らかく滑らかな姫皮だがタケノコの風味はしっかりと感じられ、わさび醤油でより引き立つ。
灰汁抜きの方法はコチラやや時期外れ タケノコのあく抜きと保存方法
ふき味噌
わたしのように田舎に住んでいると往々にして「ふきのとうはスーパーで買ったら負け」というような価値観を持つものだが、わたしは躊躇なく買う。
というわけで、いつものスーパー「ツルヤ」で購入したふきのとうをふき味噌に仕立てた。春の苦みが心地よい一品。
晩酌のおともは「ファーストマン」
アポロ11号で人類初の月面着陸を果たした二―ルアームストロングの物語「ファーストマン」。映画化もされているがわたしは原作から手を付けた。
ジム・ラヴェルのアポロ13については読了済みだが、互いに補完し合うような部分もあって面白い。しかし、上巻の頭から読み始めた現在、年号やら地名やらのオンパレードでこれがなかなか…読み進めるのに苦労するんだなぁ。アメリカの地理や歴史に明るくないので、いちいちググらなくては納得がいかなくなってしまって。どうせ読み終わったら忘れちゃうのにね。
文化の持つ「のんびり感」に思いを馳せて
葬儀はそうだとして、ならば結婚式はどうだろう。お正月のおせち料理は?迎え盆や送り盆、端午の節句やひな祭り。考えてみると全て同様に思える。
ひな祭りを行うことでどんな実利があるのだろうか。鯉のぼりもそう。天高くあげたらどんないいことが?脚の骨折が早く治ったりするのかな?結婚式に使う予定のお金をプールしておけば、新しい夫婦に必要な様々な家電を揃えることができるのでは?
もちろん海外の文化も同様だ。キリスト教のイースターや、ヒンドゥー教におけるエカダシ・プルニマの断食など、信念や信仰が無い人にとってはやはり「自分自身で作った山を自分自身で崩す」自慰行為であると言っていいだろう。
だからこそ、わたしとしてはそれがなんとも微笑ましく、素敵なことに思えるのだ。
きっとルーツを辿れば当然のように歴史的な意味があるのだろう。時が経つに従いその理由は薄れゆき、それでも時期がくればなんとなくやらなければいけないような気がする。その結果、例えば子どもの日になれば、其処ココに鯉のぼりがあがるのを目にするようになるわけだ。
そこに実利など無くとも、子どもたちは鯉のぼりが上がったこと自体に喜びを感じ、親もまた、子どものために何かしてあげることができたという満足感を得られ、全体的に良い思い出として人生の一ページに刻まれる。なんとのんびりとしたことか。
折り鶴の件について思うこと
最近「ウクライナ大使館に千羽鶴を送ることの無駄」について議論されているニュース記事をちょくちょく目にするが、今さら何を言っているのかという気がする。ここまでずっと書いてきた通り、文化に実利を求めること自体無駄だからだ。わたしにとって文化の本質は無駄な自慰行為なのである。
千羽鶴ではウクライナの戦争を止めることはおろか、日本の小学生の病気だって直せない。同様に千人針では迫撃砲の爆風は防げないし、お百度参りをするぐらいならその時間を勉強や筋トレなどに充てた方が願いが叶う確率は高いだろう。そもそも文化の本質はそこにはないからだ。
逆に言えばウクライナにも文化があるわけで、千羽鶴の「ノリ」のようなものは当然理解できるハズだと言えよう。なので「文化の押し売りでしかない」という意見にも足りないところがあるような気がする。…が、コメンテーターの方々が言う通り、もらっても邪魔なだけだという価値観はもちろんだと思うし、それならお金でも送れよという考え方もわかる。分かった上でこれを書いていることをお含みおきいただきたい。
でもねぇ…やっぱり文化的な行為に実利を求め出したらもう終わりよ。そんなに無駄が嫌いならもう今すぐ死ぬしかない。ハッキリ言って人生そのものが無駄なんだから。生きていれば大気も大地も汚染するし、動物だって殺して食べなくてはいけない。サッサと死ぬのが一番効率的でエコだろう。
さて。
ここまでわたしのクソ記事をお読みいただいたアナタならば、願わくば文化的な慰めの一つの形式として、千羽鶴を送ることぐらいは許してやって欲しいなと。ただそれは文化的な行いの常として実利は限りなくゼロなので、助言を送るとすれば『千羽鶴と一緒に多少の寄付金でも添えてあげたらどう?』ぐらいのテンションでいかがだろうか。
戦争というリアリズムに対抗するために、ぜひ実利が必要なのだということはわかる。だがそれと文化的なのんびり感が同居してはいけないという法もなかろう。千羽鶴を見て心癒されるウクライナ人だってきっと、居るはずだ。
今回はいつにもまして晩酌にふさわしい記事になった。酔っ払いのたわごととして読み捨ててもらえれば嬉しい。
それでは。