年の瀬とは思えないほど暖かかった去年のある日。近所の映画館にて「果てしなきスカーレット」を鑑賞してきた。
『始まって10分で後悔した』などとネット上で酷評されていることは知っていたからどうなるものかと心配していたが、終わってみてビックリ、とても面白かったんだなコレが。
一体この映画のどの部分が酷評されたのか、それに関して何がわたしの感覚と乖離しているのか、どうにも気になってしまってネット評を読みあさってみた。様々な意見がある中で『話の展開が行間を読ませすぎる。客に頼りすぎ』との評をヒントに、少し考えたことを書いてみようと思う。
「果てしなきスカーレット」はこんな風に見ると楽しめるぜ
始めに、わたしはこの映画の内容を良い形で受け取って面白がることができた、ということに関してなんらの優越感も持っていない。逆に悪い方向に評価する人についても全く嫌悪感は無い。ある映画が好きな人、嫌いな人、良く分かった人、肌に合わなかった人、その感じ方に本来正解は無いのだと思う。正しいから良い、間違っているから悪いという浅はかさを超えた部分にこそ、こうしたコンテンツの面白味があるのではなかろうか。
なのでこれから書く内容について「理解できたわたしが上、文句言ってる君らは下」というような意図はさらさらないということをあらかじめ強くお伝えしておきたい。

そしてもう一点。Youtubeではスカーレット公式アカウントがプロモーション動画をいくつかアップしているが、ご覧になったことはあるだろうか。
ある公式ショート動画のコメント欄には、到底批評とは呼べからざる、ただただ「スカーレットという映画の悪口を面白おかしく言う祭り」に乗っただけとしか思えない下品なコメントで溢れかえっており、本当に心が痛む。命を懸けてこの映画を創ったスタッフのみなさんが見る可能性のあるような場所に、そんな糞を堂々と残せてしまう程度の知性しか持ち合わせていないような阿呆は、少なくともこの映画を理解することは出来ないだろう。
わたしの細田監督作品遍歴
「時をかける少女」が大好きで、何度も何度も見た。
筒井康隆の原作と比べてどうこうというよりは、あの映画にはあの映画ならではの良さがある。登場するどのキャラクターも生き生きと魅力的で、教室に漂う太陽の匂いすら香ってくるような生活感があった。
なのに、非常に楽しみにしていた次作「サマーウォーズ」がわたしの肌には合わなかったんだよなぁ。
親戚のおじさんが「親戚のおじさんの役」をやっている感覚というか。その頃の自分にはサマーウォーズの各所に見られるこうしたステレオタイプがとてもわざとらしく思えてしまって、真琴にはあった「こういう性格の女性って同じ女性から嫌われるんだよね」というようなことまで感じられるリアル感(それもある意味ではステレオタイプか)が無くなってしまったことに、がっかりしたのを覚えている。
そんなわけでそれからしばらくは細田作品に触れてこなかったわたしだったが、たまたまタイミングが合って前作「竜とそばかすの姫」と、最新作「果てしなきスカーレット」は鑑賞することができた。そしてどちらもとても良い映画だった。
童話性:王子が王子の役割を演じるということ
今まで書いたこともこれから書くことも、全てはわたしの個人的な感じ方を記したものだということについてはしつこくお断りを入れておきたい。
久しぶりに見た細田作品「竜とそばかすの姫」では、やはりお友達はお友達の役、親は親の役、おばあちゃんはおばあちゃんの役をそれぞれ演じていて、見始めた時はあぁまたこの感じなのねと思ったものだ。
ところがそばかすではサマーウォーズよりもより強烈にその、ある意味での「わざとらしさ」を打ち出してきていて、それが強烈であるがゆえに、見始めてしばらく経過した頃にそれが何を意図しているのか素直にくみ取ることができたのだった。
すなわち「童話性」だ。
細田監督の映画が持つ童話性
オオカミが赤ずきんちゃんのおばあさんを丸飲みする時、その媒体によって違いはあれど多くの場合は動機など存在しない。彼は森に存在する危険を象徴するだけの存在であり、そこにはいわゆる「わざとらしい」悪者としての役割があるだけで明確な個性は必要ないからだ。
森にまつわる危険を子どもに伝えることこそがティア1であるこの童話において、むしろそんなものはノイズになりかねないし、この物語を素直に読んだ上で「オオカミの行動原理が希薄でキャラが弱すぎる」などという評価を下す方はいらっしゃらないだろうと思う。
同様に清貧な女性はその清貧さがゆえに苦境に立ち、王子は颯爽とそんな女性を救い出し姫とする。もちろん物語によって違いはあれど、多くの場合姫はわざとらしい程に「姫」であり、王子はわざとらしい程に「王子」だ。あの物語の王子とこの物語の王子に明確な差異が無くとも誰も困らない。このようなタイプの物語が持つ性質を、当記事では「童話性」と呼ぶことにする。
当記事内での童話という単語は、本来持っている「子どものための文学」というニュアンスにフォーカスするものではない。童話以外にも寓話や昔話に共通するような、独特な構造を持つ物語を包括して『童話』と呼んでいる。
話を戻そう。
前作「龍とそばかすの姫」はまさにこの童話のエッセンスを取り入れた(と私が思っている)作品で、そして最新作「果てしなきスカーレット」も、スカーレットにしろ、聖にしろ、その他のキャラクターにしろ、むしろこの映画全体が見事にこの童話性に則って構築されているように感じた。そして生と死、愛と憎しみなど、恐らくは普遍的なテーマに挑戦しているであろうこの作品において、この「童話的なキャラクター」たちが織りなす展開は必要十分なものであったと思う。もちろんわたしにとっては、だが。
童話性がもたらす明暗
たとえば聖。彼の持つ非常にシンプルな良心は、まさに童話性の産物と言っていいだろう。
善たるものの象徴である彼が、憎しみにかられた人生を生きる主人公スカーレットに出会うのは必然だ。逆境に立つ少女の元には助力者が訪れるもの、童話的に言うならばそこに過度な理由が描かれる方がおかしい。そしてスカーレットはその良心を通じて愛を知り、自分を許せる本当の強さを身に着けていく。奪い、奪われ、死に満ち満ちた世界ではあるが、敵といえども正しい心に触れて改悛するような救いもあり、しかし真に悪い者は悲惨な最後を遂げることとなる。
童話においてのこのステレオタイプは決して手抜きではない。
上で描いたような展開を当たり前として逐一そのバックグラウンドを語らないことで、より深く普遍的なテーマに切り込む余裕ができるからだ。実際に果てしなきスカーレットはそのように捉えても差し支えない構造の作品になっていたし、わたしはちょうど昔の名作本を読むような気持ちで最後まで楽しむことができた。
わたしは本が大好きです本棚を整理しないともう新しい本が買えない
一方昨今の映像コンテンツでは、特に日本のアニメ作品(もちろんそれだけじゃないけどね)に顕著なのだが、ストーリーの流れには必ず「そうなる理由」が描かれており、その意味でとても丁寧な造りになっている作品が多い。「鬼滅の刃」なんかはその典型ですな。キャラクターが「そうなる」には必ずどこかに深い理由があり、むしろそのバックグラウンドを描き出すことこそが物語の核になっている場合もある。
そしてそちら側からの視点で見てしまうとあら不思議、スカーレットの持つ童話性が全てマイナスに作用し、物語が一気に希薄化してしまうのだ。
普通のアニメ視点で見える世界
『鬼滅の刃』に代表されるような、キャラクターの行動原理やストーリーの流れには必ずそうなるにたる理由、動機、バックグラウンドがあり、それを非常にわかりやすい形で観客に伝えることで、製作者と観客の意識・方向性をすり合わせながら進んでいくような構造の物語を、便宜的に「普通のアニメ」と呼ぶことにしよう。
さて。普通のアニメを見る目線でスカーレットを鑑賞するとこうなる。
聖はなんの脈絡もなく、気持ちのフックもなくヌルっと現れ、さしたる理由もなくスカーレットを助ける存在になる。キャラクターとしてのバックグラウンドも激薄だし、とにかくもう不自然なほどいい子ちゃんすぎて彼のあらゆる行動に共感できず、感情移入できない。
敵として現れた何人かのキャラクターは聖に命を救われるとコロッと寝返るが、その動機が薄すぎて不自然だ。他のキャラクターも大なり小なり同じような不自然さを持っており、結果としてどのキャラクターにも感情移入できない。
そもそも死者の国って何なの?世界設定もルールもいまいちよくわからない。たくさん人がいたと思ったら次のシーンでは二人っきりだった、みたいな時間と場所も飛び飛びだったり、ご都合主義的な展開ばかりが目について感情移入できない。
感情移入できない。

できないから気持ちはどんどん冷静になり、冷めた目で見ていると脚本の粗ばかりが目につくようになる。
なので一生盛り上がることなくそのまま終わる。感想「つまらなかった」。
いや…
この気持ちめっちゃわかるぞ。
書いてみたらめっちゃわかった。文章にしてみたらとても腑に落ちた。あぁこれそう見えちゃっても当然だなってすごい思う。
これ、裏返すと全部童話あるあるなのよ。

「命を救われただけで改心する」なんてその典型例でしょ。逆に、命を救われてなお改心しないキャラは真っすぐ地獄行きなんだ童話では。
善き人が他人を助けるのに理由がいらないのも童話ならではだろう。善き人だから助けるの。逆に理由が無いからこそ「助ける」という行為そのものの尊さをピュアに伝えることができる。聖は「看護師だから」とか「現代人だから」善人なのではなく、善人だから善人なのだ。はなさか爺さんがなぜあんなに心優しいかということにルーツを求める方も少なかろう。
童話や寓話、昔話の類は一切知らない、という方はおそらくいないはず。ということはこうしたメソッドで物語を理解するための目線は誰もが持っているのではなかろうか。
では…なぜこうなってしまったのかしらね。
果てしなきスカーレットは『昔々あるところに』から始まる物語
答えは簡単で「果てしなきスカーレット」の商品としてのラッピングが普通のアニメのものと同じだから。「この映画では大人の本格童話をやりますよ」というアナウンスが弱すぎる。ならば普通のアニメを見るマインドセットで鑑賞してしまうのは当然だ。
わたしはたまたま前作を見てあぁこれは大人の本格童話なんだなということに気が付き、今作についても始まってみたら同じテイストだったので普通に楽しむことができた。いや普通じゃない、すごく面白かったよマジで。わたしが記事でしょっちゅうご紹介するような「古くて重い内容の本」に匹敵する強度の物語だった。
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ただこれ、たまたまと言えばたまたまだったわけで。
竜とそばかすを見ていなかったとしたら、今作のために行われた様々なプロモーション、またポスターの絵柄やキャラクターの雰囲気などを知った上で、果たしてそのようなマインドセットで見始めることができただろうか。…たぶん無理だろうなきっと。当たり前のように普通のアニメを楽しむつもりで見ただろうから、結果、聖の善性に対して、それ相応のバックグラウンドが無ければ納得できないようなことになってしまって、まんまと「つまらなかった」エンドに到達していたことと思う。
ちなみに、チューニングがくるってしまえば桃太郎でも十分ブッ飛ぶぞ。
だっていきなり巨大な桃が流れてきちゃうんだから、普通のアニメ視点で見ていた場合、その時点でほとんどの観客の感情が終わると思う。それで割って赤ちゃんが出てきた時点で残りの観客の感情も終わる。桃の中から赤ちゃんが!これは事件ですよ奥さん警察と病院に今すぐ行かなくちゃいけない全てを受け入れ育て上げて鬼退治に送り出してる場合じゃありませんよ!
…でもまぁ、桃太郎をそんな風に見る人っていないよね。これは昔話だなって誰でもすぐわかるもの。仮に普通のアニメ視点で見始めてしまったとしても、巨大な桃がどんぶらこと流れてくるという展開になった時点でこれはそういう類の話なんだなとチューニングが合うと思う。
スカーレットの場合、多くの方にとってそうならなかった原因は恐らくビジュアルのせいなんじゃないかなぁと思った。
こうだったらよかった(よくない)
そもそも映画では通常、冒頭の最序盤で自然にそのチューニングが合うように造られている場合がほとんどだ。そしてもちろんスカーレットもそのように造られていたのだが、これだけ酷評されているところを見るとやはりその誘導が弱かったのだろう。先に描いた通り、そばかすの予習が無ければわたしのチューニングもくるっていたかもしれない。
『セリフがどれもひとクセあって、説明臭くて受け付けなかった』という評については、思わず惜しいなぁ~!と口走ってしまった。そこまでは感じられていたのに!その違和感をヒントにもっと文学的な解釈へ、古い本のセリフを読むようなチューニングにチェンジできていれば!…と言ってもやっぱりビジュアルのイメージが強すぎるからねぇ。この絵面はあまりに普通のアニメっぽいじゃないか。
例えばスカーレットがこんな見た目だったらどうだろう。

うんわかってるまず細田監督どうしちゃったのかな?って思うよね。半裸だしコンプラやPTAも心配になるよね。そして敵キャラはこんな感じ。

絶対売れないだろうな。
むろんお遊びだが半分は本気だ。
このビジュアルでは残念ながら絶対にヒットしないし、細田監督は各方面からものすごくメンタルヘルスを心配されることになるだろう。しかし、映画を見た人が満足して帰る確率はグッと高まるはず、と本気で思っている。
始めに書いた『話の展開が行間を読ませすぎる。客に頼りすぎ』との評。実は『他の映画なら、辻褄が合わないと感じる箇所は自分が何か見逃してしまったんだとまずは思う。が、細田作品ではその場合、ただただ説明がなされていないものと確信してしまう程度には行間がデカすぎる。』という評もあった。
この行間を読むという行為が、文章(この場合はストーリー)の表層に現れてこない真意をくみとることだとすれば、その真意に辿り着けなかった人の多くは「童話性」という地図を得ることが出来なかった人なのではないか、というのがここまで書いてきたことの結論だ。地図を持たずにさんざ彷徨った感想が「行間がでかすぎる」なのだとしたら納得せざるを得ない。
『客に頼りすぎ』とは実に的を得た表現だと思う。
このぐらい描いておけばわかるっしょ!と理解を観客に頼って、地図を見つけるための手助けを(恐らくは意図的に)怠った結果、多くの方が迷子になって楽しむことができなくなってしまった。この映画、めっっっっちゃ良い作品なのに!!せめてもう少し「これは大人の本格童話なんだよ」ということが何かどこかでわかるような仕掛けがあったらなぁ…と、自分が関わったわけでもないのにとても悔しい気分だ。
だからわたしがそれをやる!金太郎と鬼で。
このタイプの絵面で展開される物語に対して、現代劇的なバックグラウンドや動機を求める者はきっといないだろうと思う。観客の目線はごく自然に童話を楽しむためのチューニングに合わせられ、果てしなきスカーレットはそのテーマを存分に伝えることができるわけだ。めでたしめでたし。
もし今後ご覧になる機会があれば、その際はぜひこの映画は「むかしむかしあるところに」から始まる物語である、というマインドセットでご鑑賞いただきたい。きっと楽しめるはずだぞ。
それでは。
※わたしはただの本好きで映画評論家でもなんでもなく、ここまで偉そうに書いてきたことはあくまで個人的な感想です。全ての文末に(…と個人的には思う)が省略されていることをお忘れなく(しつこい