ロゴマーク 2021/12/08 コラム

音楽と、歌と、世界平和って何よ?【晩酌 #2】

ライター町田
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 下手の横好き、と言えば少々へりくだり過ぎかもしれないが、わたくし町田は若い頃から音楽を趣味としている。例えば、以下のページではわたしがYoutube動画のBGMとして作成した曲をご紹介しているので、時間があれば聞いていただけると嬉しい。

参考サイト料理動画用のポコポコしたBGMが作りたい 後編

 アプリを利用してPC上で楽曲を編集する、いわゆる「DTM」という方法で作成した曲だ。

 曲によってはエレキギターも弾くし歌も唄うが、基本的にはミキシング作業を含めた全行程をPCのみで完結することができ、とても手軽に音楽を楽しめる。コロナ禍でも十分に遊べる趣味なので、興味のある方はこの機会に始めてみては如何だろうか。

 さて。そんな音楽の中でも今回取り上げたいテーマは「歌」だ。

「本当の声」を追い求める謎の旅

 みなさん、唄うことはお好きだろうか。「人前で歌うのは苦手」という方は多くいらっしゃると思うが、歌そのものが嫌いだ、という方は極少数ではないかと推測する。少なくともわたしの周りにはいない。

 例によってわたしも歌が好きだ。

ダイナミックマイク
歌うことはとても楽しい

 わたしの「音楽が好き」という感情の内、おそよ半分は歌が好きだという気持ちが占めているような気がする。歌で気持ちを表現することは尊い。例えばその感情がポジティブなものでなかったとしても、唄うことで新しい形に昇華させてやることができる。その上、体一つあれば誰にでも出来てしまうというお手軽さ。こんなに素晴らしい行為もそうそうあるまい。

 しかし。

 ここ数年、わたしは声の悩みにとりつかれてしまい、思うように歌えなくなってしまった。

 きっかけは、ある時ふと「今出しているのは自分の本当の声では無いのではないか」と考えて始めてしまったからだった。言い換えれば、声帯という楽器をよりよく使う方法を、自分にとってより自然であるはずの歌い方を自分は見落としているのではないか、という疑念だったのである。

そもそも「本当の声」って?

 この疑念は何も歌だけに限った話ではない。いや、当初は歌に限った話であったのだが、自分の中で様々な発声法を試すにつれ、次第に話し声も含めた発声全体にまで考えが拡大してしまった。

 ちなみに、わたしのいう「本当の声」というのは、俗にいう「いい声」とは直結しない。

 あくまで自分本来の、生まれ持った喉の使い方で声を出したいという欲望なのだ。結果としてそれが奇妙な声だったというバッドエンドも十分にあり得るだろうが、その時はその時で受け入れるしかなかろう。
 
 そんなわけで、「本当の声の出し方に近づけば近づくほど発声するのが楽になるハズだ」という骨子の元、自分なりに楽な発声方法を求めて日々試行錯誤を繰り返している。あらためて振り返ってみると、こんなことを始めてからおよそ3年(!)が経ってしまうのだから驚きだ。何やってんだ俺は。そして、ここに来てやっと出口が見えつつあるのだが…それもどうなることやら。

今日の晩酌

 では。そろそろ呑もう。

今日の晩酌 おつまみたち
今日は種類で勝負

 これが自分にとって一番楽な発声方法なんだ、という結論に、実はこれまで何度も帰結している。そしてその度にまた新しい方法を発見してしまうのだ。迷路の先にまた新しい迷路を見つけてしまうというエンドレスな状態なのだが、今回見つけた出口が最終であることを切に願っている。

かつお節と昆布の佃煮

かつお節と昆布の佃煮

 わが家では「木の皮」という不名誉な名前をつけられている佃煮。

 出汁殻を砂糖としょう油、そして酒で佃煮にしたもの。わたしが愛用しているのが厚削りのかつお節であるため、スルメのような固い食感になるんだな。ゆえに「木の皮」と呼ばれているのだが、逆にその固さがクセになるという一品。子どもたちも「木の皮ちょうだい」とおやつ代わりに欲しがる程だ。

左から奈良漬け・梅干し・カブの葉の常備菜

奈良漬け・梅干し・カブの葉の常備菜

 奈良漬けは妻の祖母が漬けたもので、梅干しは市販のカツオ梅。カブの葉はサッと湯がいたものをごま油でよく炒め、干しエビを加えてしょう油・みりん・酒で味付けした。どれもチョイとつまむのにちょうど良い。

晩酌のおともは「うたかたの記」

短編集「阿部一族・舞姫」
今日のおとも「阿部一族・舞姫」

 山田五郎さんがアート系のYoutubeチャンネルをやっている。

 非常に興味深く、語り口も軽妙で、わたしもチャンネル登録して更新を楽しみにしているのだが、先日アップされた明治絵画の回にて「うたかたの記に登場する巨勢のモデルは原田直次郎である」という話をしていた。どうやら森鴎外と原田直次郎は懇意であったらしい。

 そんなことで、短編集「阿部一族・舞姫」を戯れに引っ張り出し、うたかたの記を再読してみた。わたしは同じ本を何度も読むのが好きなのである。

 それほど古文に明るいわけではないのに、擬古文で書かれた本書を苦もなく読めてしまうのが不思議だ。日本人のDNAがなんちゃらということなのだろうか。舞姫にしろ、このうたかたの記にしろ、西洋での体験を敢えて擬古文で書いたのは森鴎外ならではのスノッブなのか、はたまた照れ隠しなのか。ついそんな風に勘ぐってしまって良くない。

声の出所は人それぞれ

 そもそも普通に生きていて「本当の声を出したい」などという謎の欲望にぶち当たることも稀だろう。ましてやその謎の旅路を3年も歩き続けているとなると…。客観的に見て相当アブないヤツであることは間違いない。

 そしてそのアブない張本人から最後に強くお伝えしておきたいこととしては、声って本当に人それぞれ全然違う出し方をしてるんだよ!という事実なのである。だから何?って言わないで。

本当の声で世界平和を叫ぶ

 大前提として、声を出している部分、つまり喉の中の動きというのは、手足なんかの動きと違って簡単に目で見ることはできない。

 なので結局は感覚論に頼ってしまうことになるわけだが、わたしの個人的な感覚として3年前と今現在では、全く違う力を使って全く違う部分から声を出している。実際は同じ声帯を通って音が出ているわけで、「全く違う」という表現に科学的語弊があるのは百も承知だ。しかし、感覚的にそのぐらいの違いがあるということをお伝えしたい。

 この3年間というもの、自分の感覚と膝を突き合わせて対談でもするような気持ちで、声の出し方について考え得るあらゆる方法を試してきた。その1つの答えとして、喉の空間は思っているよりずっと広い(しつこいようだが感覚的な話だ)

 アナタとワタシ、君と僕の声は、その広い空間のどこを通ってどのように出ているのか、そしてどんな力を使っているのか。感覚の違いを他人と比較することは非常に困難だが、恐らくは驚くほど違っているものと思われる。それは色を口で説明できないことに似ているのかもしれない。

 さて。

 声のことに限定してしまえばニッチな需要になってしまう話だが、その実、この話の本質は人生哲学にすら関わっているということにお気づきだろうか。

 今回のテーマが暗に示すのは、目の前にいる人物が自分とどれだけ違う感覚をもった人間なのか、それを比較することは本質的に出来ないという事実だ。言い換えれば、人は真の意味ではわかり合えない。だからこそ我々はもっと寛容であるべきなのではないだろうか。Yahooニュースに心の激狭なクソコメを残している場合ではないのだ。「自分と他人は全く違うものである」という感覚を、より深いレベルで共有し、認めあう。そんな相互理解が人類に広く及んだ時、全ての戦争は終結するのかもしれない…(なんだこれ)。

平和のイメージ
平和を守りたい(なんだこれ)

はい。

 ここまで書いておいて現在の声をご紹介しないのは少々心苦しいが、今の中途半端な状態をお聞かせするのはどうしても躊躇ってしまう。なにとぞご容赦いただきたい。
 
 まぁいずれReeazyでご紹介する機会もあるだろう。その時はこの記事を思い出し、世界平和にでも想いを馳せて欲しい。

 それではまた。

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