「近頃」という書き出しは適切ではないかもしれません。
しかし、あくまでマスコミやインターネットから受ける印象として、やはり「近頃」はとても悲しい、凄惨な事件をよく耳にするようになりました。
一つ一つの事件については報道されている程度の知識しか持っておらず、ここで気持ちの云々を吐露するつもりはさらさらありません。ただ、わたしも人の親として、諸々の事件を「自分の子どもに教えるべきこと」というフィルターを通して見たときに感じることがあり、頭の整理がてら徒然に書いてみようと思ったのです。
昨今の事件に共通する「怒り」というキーワード
人が罪を犯す理由は様々。
欲しいものを得るため。邪魔なものを排除するため。思い通りのシステムを作るため。挙げればキリがありませんが、昨今の大きな事件にはある共通点があるように思います。
それは、始めに何かに対する怒りがあり、その怒りが暴力へと直結しているということ。
ある意味では当たり前の話なんですけどね。
男の子ケンカってだいたいそういうものじゃないですか。何かうまくいかないことがあって、怒って、相手を叩く。モヤモヤした怒りをうまく口で表現できず、つい手が出る。
しかし、これは子ども同士であって、責任を取る親や監督してくれる先生がいた上で、そのケンカをきっかけに考えたり成長したりすることがあって、始めて成り立つ「当たり前」なんじゃないでしょうか。
小説をパクられた怒りでガソリンを撒いて火をつける。これは許されません。
「怒り」自体は悪いことではない
では「高速道路で気に入らない運転をされた ⇒ 怒った ⇒ その車を煽った」という流れがあった場合、どこからが本質的にいけない部分なのか。
ネットなどの意見を見ると、そんなことでイライラするような人はそもそも運転をする資格が無い、といったような論評も多いように思いますが、個人的にそうは思いません。
「気に入らない運転をされるとイライラする」という性格はその人の資質であり、個性でもあると思うからです。
もちろん、それは決して良いことでは無いというのが大前提。
でもそこを責めても問題が先に進まないでしょ。だって、運転していてイライラした経験は多かれ少なかれ誰にでもあるハズです。
車道に関するルールは基本的に、必ず自分以外の誰かに合わせて進まなければいけない仕組みになっており、その構造上ある程度ストレスが溜まるのは仕方のないことのように思えます。それがイライラしやすい人であれば尚更ですね。
真実なのか病的な思い込みなのかは別にして、自分の書いた小説をパクられたと感じて怒った。ここまでの事実をどうして非難できるでしょう。わたしは趣味で曲を作りますが、真剣に作ったものであればあるほど、何かしら不当な扱いをされたときには怒りを感じるものです。
何が言いたいかまとめます。
「何か気に入らないことがあった ⇒ 怒った ⇒ 暴力をふるった」という略図があった場合、「何か気に入らないことがあった ⇒ 怒った」という部分はその人の個性によるものなので断罪されるべきではなく、問題の全ては「怒った ⇒ 暴力をふるった」の部分に集約されているとわたしは考えます。
多くの大人は怒っても暴力を振るいません。しかし、それは暴力をふるうほど怒っていないから、という程度の問題ではありません。
「怒り」という気持ちの扱い方を、大人になる過程で自分なりに会得してきたからです。
怒りを「理解」して味方につける
わたしの子どもたちもちょっとしたことですぐケンカをします。
理由を聞いてみると「言い方がちょっと意地悪だった」とか「遊ぼうと思っていたおもちゃを先に取られた」とか…そんなの後でも先でも順番でやればいいのにねぇ。
で、「そんなちょっとしたことでお互いすぐ怒っちゃダメだよ」と叱ってから後悔するわけです。
子どもたちにとってはちょっとしたことじゃないから怒っているんですよね。怒りの近くには必ず個性があり、その琴線に触れるから怒る。
そんな時は最近、「じゃあどうして怒ったのか、何を大事に思って怒ったのか」を聞いてみるようにしています。
もちろん怒りの頂点にある時は何を言ってもだめですが、ある程度の時間が経ってクールダウンしてくるとそれぞれ考えを話し出し、気持ちを上手に吐き出せてスッキリする時もあれば、改めて考えるとなんでケンカしてたのかお互いよくわからん、なんていうこともしばしば。
全く本筋からズレた予想外のところに怒りの原因があることもあったりして、子どもの話って本当に面白いですよね。
こんなやり方が子どもたちに合っているかどうかは、正直、自分でもよくわかりません。
わたしの場合は、怒りの根源を理解することが経験的に一番のアンガーマネジメントになるからそうしているだけ。しかし、裏を返せばそれがわたしが教えられる最大限のことなのです。
皆さん経験がおありかと思いますが、怒りを上手に処理できない期間というのは非常に辛い時間です。
処理できずに溜まった怒りは淀みとなり、その淀みがさらなる怒りを生み出し、膨れ上がった怒りの世界は現実を超えて事実すらゆがめてしまう。
両手に包丁を持って子どもたちを襲った男性の世界観は、そういった感覚の延長線上にあったのかもしれません。
逆に、上手に手懐けることができれば、怒りは心のガソリンにもなりえるパワフルな感情です。
怒りを以て正義をなす、っていう表現はちょっと怖いけど…。でも「怒りの原動力で人生を成した」という人物の自叙伝は枚挙に暇がありません。
子どもたちにはぜひ怒りとの上手な付き合い方を覚えてもらいたいし、自分も親として最大限その手助けをしてあげたいと思っています。